ヘンリー・テューダーの上陸地、ミル湾

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1485年8月7日、ヘンリー・テューダーは、ミルフォード・ヘイヴン水路の河口であるミル湾に上陸した。彼は古のウェールズ君主の血を引くとされ、また父方の祖母はキャサリン王妃(ヘンリー5世の未亡人)だったので、ウェールズの民衆から、イングランド王となってウェールズを抑圧から解放する「予言の息子」とみなされていた。人生の大半を亡命先のフランスで過ごしてきたが、28歳のとき、彼はフランス国王から資金援助を得て、約2000人のフランス人傭兵を引きつれ帰国したのである。そして2週間ほど後に、レスター付近のボズワースで国王リチャード3世を破って、彼はヘンリー7世となった。彼が創始したテューダー朝(1485-1602)は、今日までの英国史に深い影響を与えてきた。詳しい伝記はこちら https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー7世 。

ヘンリーはなぜミル湾に上陸したのか? ここがゆかりの地だったからである。彼はミルフォード・ヘイヴン水路の反対側にあるペンブルック城で生まれた。そして叔父ジャスパー・テューダーが、フランスでヘンリーを育てながら、ペンブルック伯爵として領民とのひそかな関係を維持していたのだ。

ミル湾を選んだもう一つの理由は、3キロほど北のデール城にいる国王側の目を引かないためであった。当然ながら、ヘンリー帰還のうわさはすぐに広がり、国王は8月11日にはこれを知っていた。しかし、急ごしらえの小さな軍団は反撃されることなく、この辺鄙な湾へなんとか上陸を果たした。

ヘンリーがボズワースへの進軍を友好的な地域から始めたのには、さらに重要な意味があった。なぜなら軍隊は住民から速やかに食糧を調達しなければならず、また彼の王権への大義を支援してくれるジェントリ階級の将兵を増やしながら進む必要があったのだ。そうした戦略が功を奏し、進軍ルートで最初の大都市ハヴァフォードウェストで、彼らは熱烈な歓迎を受けた。

ウェールズにおけるヘンリーの有力支持者の一人がフリース・アプ・トマスで、彼はペンブルックに近いカルー城などの領主であった。各地でより多くの兵士を集める名目で、トマスはヘンリーとは別のルートで進軍したのだが、後の物語はロマンチックに潤色されて、トマスがミル湾にヘンリーを出迎えたことになっている。

2004年、ペンブルックシャー海洋特別保護区が指定され、これにはミルフォード・ヘイヴンも含まれる。指定の目的は、この地域の貴重な野生海洋生物を保護し、また水路による商業と観光を振興することにある。

地図

ペンブルックシャー海洋特別保護区のウェブサイトはこちら。

周辺にある歴史的な軍事施設跡:
イースト・ブロックハウス(東の小要塞) – テューダー期の石造物および後代の軍事遺跡
ウェスト・ブロックハウス(西の小要塞) – 1850年代に建造され、水路の入口を防御した

翻訳・補足: 藤沢邦子

 

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