オワイン・グリンドゥール像、コルウェン

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オワインStatue of Owain Glyndwr in Corwen・グリンドゥールの等身大のブロンズ像は、北東ウェールズのコルウェンの広場に2007年に設置された。歴史的なオワイン・グリンドゥール・ホテルから通りを隔てたところにある、重さ8トンの大理石の台座の上にそびえるこの像を彫刻したのは、チェスター出身のコリン・スポフォースである。

オワイン・グリンドゥールは、おそらく1350年代に(台座の説明文によると1349年)に生まれた。父はグリンダヴルウィおよびカンサライスの領主だったグリフイッズ・ヴァファン。グリンダヴルウィは国道A5に沿ってコルウェンの西7キロに位置する。母エレンは、ケレディジョンの豪族の出である。どちらもイングランドに征服される前のウェールズ王族の血を引く。典型的なアングロ・ウェリシュ貴族として、若きオワインはその教養をロンドンの法学院で身につけた。

彼はコルウェンにほど近いカロッグおよびポウィスのサカルス(オズウェストり近郊)に居城を構えていた。1399年にリチャード2世がヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)とその支持者によってコルウィン・ベイで捕われ、廃位されるまでは、グリンドゥールはイングランド国王に臣従しスコットランド人やオランダ人と戦っていた。王位をめぐる政変を見たことが壮年のグリンドゥールの世界観に影響を与えたかどうかは、はっきりしない。このころ、彼は隣国リシンの領主レジナルド・グレイ卿と領地をめぐって争い、イングランド議会に仲裁を訴えたが無視された。1400年9月、彼はリシンを攻撃し、やがて周辺自治都市にも侵攻した。ウェールズ人はこれを、イングランド人移住者と彼らの得ていた特権に反抗するチャンスとみなして支持したので、小競り合いはすぐにウェールズ独立をめざす全面的な反乱に発展した。

この反乱はフランスと、ヘンリー4世に不満を抱く一部のイングランド人貴族の軍事的支援をも受けた。1404年、海外やスコットランドからの外交使節らは、ウェールズ中西部マハンセスの議会でグリンドゥールがウェールズ君主(プリンス・オヴ・ウェールズ)の座に就くのを見守った。

ウェールズのほぼ全土を掌握した1405年、彼とその同盟者は、さらにイングランド国王を倒してイングランドを3分割し、ウェールズには相当大きなイングランド領を加えるという密約を結んだ。しかし、長引く戦いにフランスの支持は弱まり、反乱軍はウェールズでの地歩をも失っていった。そして1409年、イングランド軍はグリンドゥールの拠点になっていたハルレッヒ城を奪還した。

破れたグリンドゥールは決して捕まることはなく、神出鬼没のゲリラ戦を続けたが、1415年ごろ、潜伏先で没したとされる。反乱は失敗に終わったものの、彼はウェールズ独立のために戦った英雄として、今に語り継がれている。

シェイクスピアは、史劇『ヘンリー4世』において、魔術を操るエキゾチックで荒々しい、しかも勇敢で気高く、誰をも魅了する人物としてグリンドゥールを描いている。 

翻訳・補筆: 藤沢邦子 (日本カムリ学会会員)

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