プリチャード-ジョーンズ・ホール(バンゴール大学)

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ウェールズ大学バンゴール校の大ホールは、その建設に15,000ポンドを寄付したジョン・プリチャード-ジョーンズにちなみ、プリチャード-ジョーンズ・ホール(PJホール)と命名された。彼は北ウェールズのアングルシー島出身で、ロンドンの高級百貨店ディッキンズ&ジョーンズの共同経営者として財を築いた。この店は1914年にハロッズに買収された。

Photo of Prichard-Jones hall
Students dancing during a ball at PJ Hall.
Courtesy Bangor University archive

大ホールは大学本館の一部として、ロンドンの建築家ヘンリー・ヘアーによって設計された。内部は1911年の創建時とほとんど変わっていない。電灯シャンデリアが天井から下がり、壁面は昔のままのカシの羽目板張りである。最大の改修は、1973年にパイプ数1700本以上というパイプオルガンが設置されたこと。これには、バンゴールのタバナクル・チャペルにあった1880年代のパイプオルガン素材が合体されている。

第二次世界大戦が始まる1週間前の1939年8月23日、ロンドンのナショナル・ギャラリーは、予期される空襲から守るため、国宝級の絵画の数々をバンゴールに移送した。ボッティチェリ、ルーベンス、レンブラントなど500点以上の名画がここPJホールに疎開したのだ。バンゴール郊外のペンリン城に保管されたものもある。これらの建物が選ばれた理由は、ドアや部屋の大きさが、絵画の搬入に適していたからだった。

絵画をバンゴール駅へ輸送する鉄道車両は特別に設計され、武装警備隊に護衛されていた。PJホールの窓には鋼鉄製の桟がはめ込まれた。

Photo of Bangor paintings van
A National Gallery painting arriving at PJ Hall, 1939.
Courtesy Bangor University archive

ドイツ軍の爆撃機が北西イングランド工業地帯を空襲するため北ウェールズ沿岸に飛来しはじめた1941年夏まで、絵画はバンゴールに留め置かれていた。だが、当局は爆弾が誤ってPJホールやペンリン城に落ちることを恐れて、絵画をさらに北ウェールズ内陸のマノドやフェスティニオグのスレート採石場の坑道へ移すことにした。その際、幾つかの鉄橋の下では、ヴァン・ダイクの巨大な『チャールズ一世騎馬像』の運搬車が通過できるように、道路を60センチ掘り下げなければならなかった。この絵画疎開のために利用した採石場の坑道は、次なる戦争に備えて、冷戦(1945-85)が終結しはじめた1980年代まで政府の管理下にあった。

何世代もの学生が試験やダンスや卒業式のためにPJホールを利用した。ここはまた、北西ウェールズの音楽文化の殿堂として長い伝統を担ってきた。毎年のクリスマスには、大学オーケストラと地元の合唱団がヘンデルのメサイアを演奏する。来演したウェールズが世界に誇るアーティストには、1984年当時ボーイソプラノで一世を風靡したアレッド・ジョーンズや、2012年のPJホール100周年記念コンサートで美声を響かせたブリン・テルヴェルなどがいる。

藤沢邦子日本カムリ学会会員

郵便番号 : LL57 2DG    地図

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