エマ・ハミルトンの子供時代の家があった場所、 ハワーデン

button-theme-womenbutton_lang_frenchエマ・ハミルトンの子供時代の家があった場所、 ハワーデン

ネルソン提督の愛人で彼の娘を生んだエマ・ハミルトンは、かつてここにあった草葺きコテージで育った。それは、この古い写真で見るように、〈フォックス&グレープス〉に隣接していたが、1896年に取り壊された。

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エマは1765年4月にウィラル半島のネスで生まれた。生後2か月で父ヘンリー・ライアンが死に、彼女は母メアリーとともに、ハワーデンに住む祖母サラ・キッドのもとに身を寄せた。

エマは十代初めからチェスターの外科医リー・トマスの家〈チャーチハウス〉で女中となり、その後ロンドンに出て、高級娼館で働きはじめた。やがて貴族の愛人となったが、妊娠すると捨てられたので、新しい恋人チャールズ・グレヴィルに頼ることになった(生まれた娘は祖母に育てられた)。だが二人の仲は、グレヴィルが彼女を叔父のウィリアム・ハミルトン卿に譲ったときに終わった! 美しく、歌や踊りや芝居の才能もあったエマの姿は、ジョージ・ロムニーやエリザベト・ヴィジェ=ルブラン等の肖像画で多数残されている。

hawarden_emma_hamiltonエマとウィリアムは1791年に結婚した。彼はミルフォード・ヘイヴンに広大な地所を持ち、ナポリ国(現イタリア)公使でもあった。彼のナポリの邸宅はヨーロッパの賓客や文化人が集まるサロンとして有名だったので、ハミルトン卿は女主人を必要としていたのだ。ここで、エマとホレーショ・ネルソン提督は出会った。その後数年、ネルソンはナポリでハミルトン夫妻と同居していたが、妻フランシスがそこに来ることを許さなかった。ハミルトン夫人とネルソン提督の不倫は大スキャンダルであり、彼が妻と別居した後では、国民的英雄とヨーロッパ社交界の花ではあったが、二人は一部の人々の顰蹙の対象にもなった。エマは1801年、夫ハミルトン卿が亡くなる2年前に、ネルソンの娘ホレイシアを生んだ。

hawarden_emma_hamliton_cottage1805年にトラファルガー海戦へ赴く前に、ネルソン提督は遺言補足書において、自分が国王と国のために戦って死んだ場合、国がハミルトン夫人を扶養するよう要請した。しかし、彼女の金銭的請求は拒否された。彼女はそれでも社会的地位を維持しようと多額の負債を重ねた。ついに破産して債権者監獄に収監された後、エマは娘ホレイシアとフランスのカレーに移り住み、1815年にそこで死去した。 

郵便番号 CH5 3DH    所在地の地図

翻訳: 藤沢邦子