アベリストウィス城の遺跡

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アベリストウィス城の遺跡

aberystwyth_castle_ruinsこれらの石壁は、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服のために築いた多くの城塞の一つの遺跡である。アベリストウィス城の建造は1277年に始まり1289年に完了した。壮大なスケールの同心円形(すなわち二重環状形)の城だった。 

1404年4月、この城はオワイン・グリンドゥール率いる反乱軍によって占拠された。その後4年間、ここはグリンドゥール支配下のウェールズの行政の中心地となった。彼はウェールズ君主としてここで、ときどき宮廷会議を開いたようである。1408年に城はイングランド軍により奪還され、グリンドゥールは海岸沿いに北へ撤退して、ハーレフ城に移った。グリンドゥールの反乱については、こちらを参照

1485年8月、若きヘンリー・テューダーの弱小兵団がペンブロークシャーからボズワースへ進軍しようとしていた時、この城は障害として立ちはだかっていた。しかし、歴史家ポリドール・ヴァージル(1470-1555)の記録によれば、当時の城主フェラーズ卿がここに多くの駐屯兵を配備していなかったため、ヘンリーの兵団は「大した困難なく」アベリストウィス城を奪取したという。

これは、ボズワースに向かうに当たっての、ヘンリーの優れた戦略を予見させるものだった。彼の兵団が十分に強大になる前には、大きな衝突を避けるべく、進軍ルートはウェールズの辺境ばかりを辿っている。ボズワースの戦いでリチャード3世を破ったヘンリーは、ヘンリー7世となり、英国史に大きな影響を与えることになるテューダー王朝を築いた。

1637年、鉱山技師トマス・ブッシェルは国王チャールズ1世の勅許をえて、アベリストウィス城内において硬貨を鋳造しはじめた。ブッシェルはその頃、ケレディギオンの銀山の採鉱権を取得したところだった。これまでは採掘された銀はロンドンに運ばれ、貨幣はそこで鋳造されていたのだが、ブッシェルは「地元でも鋳造できる」と国王を説得したのである。ウェールズ産の銀を用いて鋳造を許された硬貨は次のとおり:銀貨、シリング、半シリング、グロート(4ペンス銀貨)、3ペンス、2ペンス、ペニー、半ペニー。

だが清教徒革命という内戦の勃発により、この貨幣鋳造所は閉鎖された。そして1646年、王党派が率いるアベリストウィス城はクロムウェルが率いる議会軍に降伏し、城の大部分が徹底的に破壊された。イングランド内戦については、こちらを参照。上の写真は1890年代の城跡を示している。

2001年に撮った空中写真によって、城跡と大戦記念碑の間の土地で、一時期農作物を栽培していたらしい形跡が見つかった。

翻訳: 藤沢邦子

 

地図

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