聖パダルン教会、スランバダルン・ヴァウル、アベラストウィス
聖パダルン教会、スランバダルン・ヴァウル、アベラストウィス
ここはウェールズで最も重要な初期キリスト教化地域の一つである。6世紀に聖パダルンによって修道院が建てられたが、後にヴァイキングに襲われ破壊された。いま目にしているこの建物は、堂々たる塔を含めて、主として13世紀に再建されたもので、後に増築や改造が加えられた。1870年代に教会堂の修理が必要になったとき、非常に多くの変更が提案されたので、アーツ&クラフツ運動で有名な建築家ウィリアム・モリスが、司祭に節度ある穏健な修復を訴えた。
パダルンは布教のためブリタニー(北フランス)からウェールズにやってきた。彼の開いた修道院は100人以上の修道士を惹きつけ、彼らはマエルグイン・グウイネッズなどこの地方の支配者をキリスト教徒に改宗させようと努めた。あるとき、パダルンはマエルグインにあらぬ咎めを受けたが、熱湯神判によって身の潔白を証明したという。なお、スランベリスの聖パダルン教会は、同名の別人に献じられたもののようだ。
スランバダン・ヴァウルは、かつてウェールズで最大の教区であった。そして11世紀、この教会は学問と文芸の一大中心となった。ここでスリエンやフリガヴァッハ等の聖職者が、ウェールズ初期教会の貴重な記録を編纂した。
ジェラルド・オブ・ウェールズによれば、この教会はかつて大聖堂であった。1188年、第三次十字軍の兵士を募るべくウェールズを行脚していた彼とカンタベリー大司教は、ここに一泊した。翌朝、多くの人が募兵に応じた。ジェラルドはその旅行記に「この教会は、ウェールズやアイルランドの多くの教会と同様に、正式に叙階されていない<アボット(大修道院長)>の監督下にあった」と記している。これらのいわゆるアボットは権力と土地を掌握していた。ジェラルドは「今世紀初めにブリタニーから来たある訪問者は、スランバダルンの<アボット>が、(聖服ではなく)平服を着用して槍を携えた大勢の男達を引きつれて到着したのをみて、仰天したそうだ」とも書いている。
偉大な詩人ダヴィーズ・アプ・グウィリム(没1370)は、この教区で生まれ育ったようである。「スランバダンの乙女たち」という詩において、彼は教会で会衆のある女性に秋波を送ったことや、彼の恋心をはねつけた教区の女性たちへの恨みを綴っている。
1485年8月、フランスから帰還したヘンリー・テューダーと彼の率いる小軍団が、ペンブルックシャーからボズワースに向かう途中、スランバダンを通過したという。ボズワースの戦いの勝利により、彼は英国王ヘンリー7世となった。
16世紀にこの地区の司祭だったウィリアム・モーガンは、エリザベス1世(ヘンリー7世の孫)の命令を受けて聖書のウェールズ語への翻訳を成し遂げた人であり、彼の偉業は聖アサパ大聖堂の外の記念碑で顕彰されている。聖書のウェールズ語訳は、国内の宗教的な対立や、ウェールズとイングランドの対立をいくらか和らげただけでなく、消滅の危機にあったウェールズ語(ヨーロッパで最古の言語の一つ)の存続を大いに助けた。1588年のウェールズ語訳聖書の原本は、聖パダルン教会に保管されている。
教会内には、1916年にここに移された古い石の十字架が2つある。これらは10世紀頃からキリスト教徒に使用されていたと思われるが、元々は異教の宗教的シンボルであったかもしれない。南の扉の石造アーチは、ストラタ・フロリダ修道院から移設されたと考えられている。
教会内の多くの記念品のなかには、アベルマド生まれのルイス・ピュー・エヴァンス(1881-1962)の記念碑がある。1917年10月のパッシェンデールの戦いにおける勇猛と指導力に対して、彼はヴィクトリア十字勲章を授けられた。
教会の最古の鐘は1749年に遡る。オリジナルの鐘は6つだったが、1885年に8つに増やされ、2001年には10に増やされ、鐘の響きはいちだんと力強くなった。
郵便番号 SY23 3QZ 地図はこちら
翻訳・補筆: 藤沢邦子