ラウル・ワレンバーグ記念樹、アレクサンドラ庭園、カーディフ

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この樹と碑は、ナチ占領下のハンガリーで何千人ものユダヤ人を救ったスウェーデン人外交官の功績を記念したもの。樹は1985年に植えられた。

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ラウル・ワレンバーグは1912年に首都ストックホルムで生まれた。彼は実業家だったが、1944年から、アメリカ戦時亡命者委員会のために働くことになった。任務はスウェーデン外交官としてハンガリーに赴き、ユダヤ人を救出することであった。1944年に彼が着任したころ、ナチスは既にほぼ50万人のユダヤ系ハンガリー人を国外に移送していた。その多くはアウシュビッツ(ポーランド)などの強制収容所で殺された。

ブタペストには、まだ移送されていないユダヤ人がいくらか残っていた。ワレンバーグは、第二次世界大戦で中立国だったスウェーデンの立場を活かして、移送名簿に載っていたこれらの人々に保護証書を発行した。その書類はスウェーデン政府のパスポートに見えるよう入念にデザインされていた。ワレンバーグは、ハンガリー当局と合意していたよりも遥かに多くの保護証書を発行した。

そして彼はユダヤ人のために安全な家、病院、スープキッチンを用意した。1944年の秋、ナチスとハンガリーのファシスト等がこれら残りのユダヤ人をも移送しようとしたときには、ワレンバーグは書類を偽造して、アウシュビッツに向かってオーストリア国境へと死の行進を強いられていた人々を救った。

彼とその協力者のおかげで、ブタペストが1945年2月にソ連軍により解放されたとき、町にはまだ10万余のユダヤ人が生存していた。撤退するナチス部隊は同市のユダヤ人地区を焼き払い、その住民を虐殺しようとしていたが、ワレンバーグがそれを説得・阻止していたおかげである。

しかし、彼自身は1945年1月に行方がわからなくなった。ソビエト関係者に、スパイ容疑で逮捕された後のことだ。1950年代のある報告によれば、彼は1947年にモスクワのKGB(ソ連秘密警察)ルビヤンカ刑務所で死亡したという。スウェーデン政府がその死亡を法的に宣言したのは、2016年のことである。

翻訳:藤沢邦子

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