スランロス教会、北ウェールズ

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Photo of inscribed stone

元々のスランロス教会は、6世紀にグウィネッズの大公マエルグウンが建て、聖マリアに奉献したと考えられている。彼は546年に、ウェールズの首長たちによって盟主に選ばれ、名目上、ケルト系ブリトン人の王となった。それは、ローマン・ブリテン時代が終わりアングロ・サクソン人の侵入が始まる前に、ケルト人が一時復興した時期のことであった。

マエルグウン王はデガヌイ城に住んでいたが、「黄色い疫病」が蔓延したとき、最後にスランロス教会に避難した。伝説によれば、彼は教会の窓から外を眺めていたとき、「黄色いレディ」が近づくのを見た。そして病にかかり、死んだ。遺体は南側のドアの下に埋葬されたという。

この教会は1282年ごろ、アベルコンウィ修道院のシトー会修道士らにより再建され、今では聖ヒラリー教会とも呼ばれている。だが、ウェールズ教会の記録文書は、この教会をまだ「聖マリア&聖エレリの教会」としている。ヒラリーというのはエレリが英語化したものという説もあれば、4世紀にフランスのポワチエからシトー会修道士たちとやってきた司教の名前だという説もある。

シトー会修道士は付近に修道院を建てたと信じられており、第二次大戦中に、古い墓石がいくつか主要道路の周辺で発見された。この地域は今も、Gardd-y-Mynachdy修道院の庭)というウェールズ語の地名で知られている。

Photo of old library in church

教会内にある興味深いものの一つは、ローマン・ブリトン語を刻んだ石だ。これはボダヴォン(スランディドゥノの東)の壁で発見されて、1908年に教会内に安置された(右上の写真)。碑文「SANCT ANUS SACER---S」は、地元のキリスト教徒を偲んだものらしい。多くの学者が翻訳を試みたが、まだ意味が解明されていない。

教会は、1712年にキリスト教知識普及教会によって設置された貸し出し書庫(左写真)をもつ、最初期の教区教会のひとつである。書籍はもうないが、オリジナルの書籍カタログやその値段表がまだ扉に張り付けられている。

教会は1820年から1865年にかけて、サンディドゥノのグロザエス・ホール(15世紀に建てられたカントリーハウス https://en.wikipedia.org/wiki/Gloddaeth_Hall )に住む大地主モスティン家からの寄付を受けて、大規模な修復がなされた。一族はいまも教会墓地内に家族用の埋葬地を持つ。教会内の西の壁の上に、モスティン家とウィン家との結婚の記念品が飾られている。ウィン家はコンウィのプラス・マウル(16世紀のタウンハウス https://en.wikipedia.org/wiki/Plas_Mawr)に住んでいた名家である。

ここのステンドグラスの窓は注目に値する。特にモスティン家礼拝堂内の、ステンドグラス中心にある緑色のガラス片はドイツから伝来したとされ、ステンドグラスの窓よりもずっと古いものだ。祭壇の上のほうにある東の窓も、とても優れた品だという。ふんだんに使われている珍しいピンク色のガラスは、なんと金と尿を混ぜて作られたものだ!

教会墓地を散策すると、興味深いいくつかの墓石に出会うはずだ。

1993年に再発見された聖マリアの泉は、教会の西側にある。

翻訳・補筆:藤沢邦子

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