サラ・シドンズが生まれた場所、ハイストリート47番、ブレコン

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Painting of actress Sarah Siddonsこの18世紀初期の建物は、1755年にサラ・シドンズが生まれた当時、〈ショルダー・オブ・マトン〉と呼ばれていた。後に彼女がその時代きっての大女優となったので、今日、この宿屋は〈サラ・シドンズ・イン〉という名称である。宿屋は隣接する16世紀の建物に繋がっていたようで、その小さな入口は、アーデント・ギャラリーに入ると見ることができる。

サラはロジャー・ケンブルとサラ・ウォード夫婦の11人の子供の長女だった。旅回りの劇団員だった両親は、サラが生まれる少し前に、興行のためにブレコンにやってきた。一座はここを拠点に、ウェールズとイングランドの両方で公演し、サラも子役として活躍。後にウィリアム・シドンズという役者が一座に加わり、美しいサラに求婚した。彼女の両親に反対されると、ウィリアムは恋の成就を訴える詩をブレコンの舞台で読むという挙に出た! 彼は一座を首になり、郷里の西ミッドランドに帰った。サラはウォーウィックに奉公に出され、貴夫人の小間使いとして働くことになった。

しかし、二人は1773年にコヴェントリーで結婚、7人の子供を授かった(後に別居)。1775年、サラはロンドンの演劇界に入り、1780年代には英国きっての悲劇女優になっていた。シェークスピアの戯曲で、特にマクベス夫人役で伝説的な成功をおさめた。ウィンザー城やバッキンガム・ハウスで、国王や王妃のためにプライベート・リーディングも行なった。キャリアの最盛期には、5000ポンドもの年収を得ていたーーー当時としては破格の金額だ。サー・ジョシュア・レノルズら著名な画家が、彼女の肖像画をきそって描いている。

サラは小説家・詩人であった妹のアン・オヴ・スウォンジーに年金を与えて援助しているが、ロンドンから少なくとも150マイル離れた所に住むという条件をだしていた! 「シドンズ夫人の妹」の貧困と奇行の評判がサラを悩ませていたからだ。

サラは1812年に舞台活動から引退したが、その後もパブリック・リーディングなどは続けた。1818年頃、アベラストウィスにできた最初の劇場に出演したようである。1831年に亡くなったとき、その葬儀には5000もの人々が参列した。ウェストミンスター・アベイには、彼女の大理石の彫像が飾られている。

翻訳: 藤沢邦子

郵便番号: LD3 7AP    所在地の地図