バンゴール図書館、グウィネズ通り
この図書館は1907年11月にオープンした。資金の大半は、篤志家の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーからの寄付によるものだった。彼はスコットランド生まれで、アメリカで製鋼業で財を成した人である。
建物はレクサム近くのルアボン産の赤煉瓦でできている。入口の上にLlyfregell Rydd 1907 (自由図書館1907年)という言葉が刻まれ、鉛製の丸屋根の天辺には八角形の天窓がついている。内部には、当時流行だったアールヌーヴォー様式のラディエータ―がある。ここは今もバンゴール市の公立図書館として使用されている。
当初の図書館が手狭になったとき、この新しい広い建物が代って使われることになった。1910年の記録によれば、古い図書館の貸出し数は5年間で8906冊だったのに対し、新図書館はわずか1年間で6354冊もの本を貸し出している。
第二次世界大戦中には、婦人ボランティア・サーヴィス(WVS)バンゴール支部が、ここを活動拠点とした。その初期の仕事の一つは、「宿舎割り当て士官」を助けて、疎開児童の滞在先を手配することだった。1939年9月3日、リバプールの空襲を逃れてきた2000人以上の小学生と教師たちがバンゴール駅に到着し、駅からセントラル・スクールまで歩いた。そこはWVSが準備した受け入れセンターで、子供たちはそこで食事をとり、身体検査を受けたのち、彼らの新しい家(ホストファミリー宅)に引き取られていった。
1941年の10月、市内のマエスゲイルチェン・エステートにパラシュート弾が落とされ、2人が死亡、14人が負傷した。大きな被害を受けた29軒に住んでいた人達は、新しい家を探すとになった。その間、WVSが救護所で彼らの世話をした。
WVSはディーン通りの元イーグル・カフェを含む数カ所で簡易食堂を開き、バンゴールに駐屯していた多くの男女軍人に暖かい飲み物や食事を提供した。また、WVSのボランティアは戦争努力の一環として、物資の供出運動を行ない、アルミニウムの鍋や台所器具を集めた。さらにクリスマスには、衣料の交換会(子供の成長に合わせた服の調達)などを組織し、ハイストリートの空き店舗でおもちゃの交換会も開いたりした。
記事協力: ホームフロント(国内戦線)博物館tのエイドリアン・ヒューズ
翻訳: 藤沢邦子
郵便番号: LL57 1DT 所在地の地図
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