カラドッグ・プリチャードの子供時代の家、ペン・ア・ブリン通り、ベセスダ

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カラドッグ・プリチャード(Prichard, 1904-1980)は、<トネリコの林 Llwyn Onn>と呼ばれていたこの家で、幼少期を過ごした。

彼のほぼ自伝的な小説 『ある月夜 Un Nos Ola Leuad』は、ウェールズ文学に大きな影響を与えただけでなく、(アメリカで出版された英語版 One Moonlit Nightに加えて)世界で11もの言語に翻訳されている。

彼の父ジョン・プリチャード(こちらはPritchardと綴る)は、ペンリンのスレート鉱山の大ストライキ(1900-1903)に巻き込まれ、ストが終わる前に職場に復帰したようだが、1905年に採石場の事故で亡くなった。カラドッグと2人の兄は、母マーガレットが精神病になったこともあり、貧困のうちに育った。1923年、彼女は家族と住んでいたグランラヴォンの〈低い家 Tŷ Isa〉を離れ、デンビーの精神病院に収容され、1954年にそこで亡くなった。

カラドッグは1922年にベセスダ・カウンティ・スクールを卒業し、ジャーナリストへの道を歩む。まず<アル・ヘラルド・カムラエグ> 紙で、次いでカーディフの<ウェスターン・メイル>で、さらにロンドンの<ニューズ・クロニクル>や<デイリー・テレグラフ>で働いた。詩人としては、1927年、1928年、そして1929年に、アイステズヴォッド(下記参照)のクラウン(自由詩部門1位)に輝き、文学界に名を馳せた。3年連続のクラウン獲得はアイステヴォッド史上初のことであり、また1927年は史上最年少での優勝だった。下の写真は、1962年サネッシでのチェア(韻律詩部門1位)授賞式のもので、上の写真より3年前のことだ。

彼は1933年にカーディフの教師マティ・アデール・グウィネ・エヴァンスと結婚。1942年に召集され、第2次大戦の最後の2年を、新聞記者およびオール・インディア・ラジオの番組プロデューサーとしてニュー・デリーで過ごした。その内容は敵国日本に対する宣伝を含むものだった。

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1961年に出版された 『ある月夜』は、彼の唯一の小説だ。ラジオ、テレビ、舞台で発表され、映画化もされた。(映画は 1992 年に『ワン・フルムーン』という邦題で、東京でも上映された。) 第1次大戦を背景として、カラドッグの育ったベセスダの暮らしを深く反映している。本作はウェールズ語による小説において、新境地を開いた。それまでタブーだった狂気、自殺、セックスなどを描いたのだ。「意識の流れ」を用いて主人公の思考を伝え、また、標準的ウェールズ語ではなくベセスダの方言が使われている。

子どもの頃、彼は母親とともにグラノグウェンの教会でウェールズ聖公会の礼拝に参加し、聖歌隊で歌い、日曜学校に通っていた。妻となるマティが会衆派(プロテスタント)だったので、二人はカーディフの彼女が通っていたチャペルで結婚式を挙げた。後に、ロンドンでも、彼はマティや娘マリと共にチャペルに通った。しかし時どき、彼はロンドン市内のセント・ベネット教会(ウェールズ聖公会)の礼拝にも参加していた。

1972年に引退してからは、自伝 『アダムの腐ったリンゴAfal Drwg Adda』 を書いたり、時おり新聞に寄稿したりしていた。1980年2月に亡くなり、ベセスダのコエトモール墓地(ロバートソン教会区画)に埋葬された。

記事へのご協力: メナ・ベイネス、『月光の中で:カラドック・プリチャードの作品における事実と想像』の著者。
マリ・プリチャード。 写真提供はカラドッグ・プリチャード財団。

郵便番号 LL57 3BD    所在地の地図

アイステズヴォッド: 文学や音楽の技能を競いあう、ウェールズ独自の芸術祭。ルーツは中世の吟遊詩人や楽人による詩歌と楽器演奏の競技会である。韻律詩部門の優勝者はチェア(詩人の長が座る椅子)を、自由詩部門の優勝者はクラウン(王冠)を授けられ、聴衆の祝福と称賛を受ける。

翻訳と補筆: 藤沢邦子    

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