コンウィ城

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これは、ウェールズ征服途上にあったイングランド国王エドワード1世が、フリントからアベラストウィスまでの海岸沿いに築いた一連の城塞の一つである。1283年から87年にかけて、城とともに城壁に囲まれた町が建設され、北ウェールズで最大の中世自治都市となった。市壁の大部分がいまも健在だ。この城郭都市は、ビューマリス城、カーナーヴォン城、ハーレック城とともに、ユネスコ世界遺産の一部を成している。

この城は、ガヴィン川がコンウィ入江に流れこむ岩の岬にドラマチックに聳えていた。設計者はサヴォイ(南フランス)出身のジェームズ・オヴ・セントジョージ。石材の多くは約600m西の採石場から運ばれた。1295年にウェールズ人に反撃されたとき、エドワード1世はここに籠城した。

城は8つの円塔、2つの防備用やぐら門、そして典型的な地下牢(深くて窓のない穴倉!)を備える。外壁の上を歩くと、この城の形状がよくわかる。

城の東端は、巨大な壁と堀からなる内部防御設備によって他の部分から切り離されており、そこには王と王妃の居室、ベークハウス(巨大なパン焼き竈が残っている)や食糧貯蔵庫などがあった。階段は直接、入江の浜に通じていた。

1403年、この城はウェールズ独立を目指すオワイン・グリンドゥール軍によって奪取された。ピューリタン革命(1642-52)の時代には、元ヨーク大司教のジョン・ウィリアムズが王党派の大義のために、損壊した城と市壁を私費で修復した。しかし1646年、彼は議会派に寝返り、議会派軍が城を攻略するのを助けた。

城が要塞として使われることがないようにと、1655年にベークハウス・タワーが破壊された。また、1820年代にトマス・テルフォードが吊橋を建設したとき、入江へ下る階段の一部が壊された。

1846年の鉄道橋の建設にあたり、鉄道技師ロバート・スティーブンソンは、城の景観を保つべく、線路が城の南側をまわるように設計し、その管状鉄橋には城郭風の小塔を施した。1880年代に、ロンドン&ノースウェスタン鉄道がベークハウス・タワーを復元した。賞賛されるべき行ないであったものの、タワーは危険なほど線路に近接していた!  

JMW・ターナーが1800年頃に、ガヴィン川の岸から描いた絵では、壊された塔の土台を垣間見ることができる。JC・イベットソンによる1794年の絵画では、吊橋や鉄橋や埠頭ができる前は、この城が(月光の中で)どんな風に見えたかを示している。

現在、この城はカドゥ(CADW、ウェールズ政府の歴史的建造物保全機関)の管理下にある。見学時間については、下のウェブサイトをご覧ください。

2018年、コンウィ城は日本の姫路城と姉妹関係を結んだ。

郵便番号:LL32 8AY     所在地の地図

コンウィ城についてのカドゥ・ウェブサイト

 

翻訳: 藤沢邦子