アバーガヴェニーのノルマン様式城址、モンマスシャー
アバーガヴェニー城は、ノルマン征服後に最初のアバーガヴェニー領主となったハーメルン・デ・バランにより1087年頃に築かれた。当初の城はモット(征服したウェールズ人を威圧する木造の塔をもつ小丘)とそれを囲むベイリー(兵士や召使の木造住居がある城壁内の中庭)から成るものだった。フランシス・ベイネスによるこの城の絵は、1100年頃のこの地域を想像して描いたアバーガヴェニー・ミレニアム記念壁画の一部である。
博物館入口そばの階段を天辺まで登ると、その高みからノルマン軍は接近する敵、特に川を渡ってくる敵を監視していたことが分かる。当時、ウスク川には浅瀬の渡り場があったのだ。
1175年、ノルマン人城主がウェールズ人の客を虐殺し、この城は悪名高い場所となった。時の城主ウィリアム・ド・ブラースが、地元貴族 Seisyll ap Dyfnwal (セイサスト・アプ・ダヴナワル)、彼の親族、家来たちをクリスマスの晩餐に招いた。客は慣例に従い武器を外に置いて入城したので、彼らは簡単に殺されてしまった。Seisyll ap Dyfnwalの発音はこちら
1188年、十字軍兵士を募るべくウェールズ各地を巡っていたジェラルド・オヴ・ウェールズとカンタベリー大司教がこの城を訪れた。ジェラルドの旅行記によれば、アバーガヴェニーの多くの男たちが募兵に応じ、アルセナスという貴族は「妻に相談せず志願した、なぜなら戦に行くのは男の仕事だからだ!」と豪語したという。
ジェラルドは上記の事件についても記している。それによると、虐殺は国王ヘンリー2世の命令によるもので、ド・ブラースは誰も殺していない。それどころか、計画が実行されていたとき、ド・ブラースは城の濠に落ちてウェールズ人に捕えられ、自分の家来により助けだされたのこと。
虐殺されたウェールズ人の子孫は1182年に報復を試み、城の防衛軍を打ち負かした。しかしその日、ド・ブラースは城にいなかった。ウェールズ人は弓術に優れていることで知られ、しばしば外国軍の傭兵となってきた。この報復戦のときも、ウェールズ弓兵隊の放った矢は塔のぶあついカシの扉を貫いた、とジェラルドは書いている。
1233年のマーシャル反乱では、城はペンブルック伯リチャード・マーシャル率いるウェールズ軍により破壊された。その後数十年の間に、城は石造りで再建され、グレート・ホールと2つの塔が増築された。
今あなたが見ている入口の門は、15世紀初めに再建されたもので、オワイン・グリンドゥールがウェールズ独立のために反乱を率いていた頃のことだ。彼の軍勢はアバーガヴェニー各地lを焼きはらったが、城自体には侵入しなかった。
さらに時代は下ると、城は清教徒革命(1642-52、チャールズ1世 v 議会)の内乱に巻き込まれた。詳しくはこちらを参照。
記事ご協力: ジル・ワクレー、アバーガヴェニー地方史協会
絵: フランシス・ベイネス
翻訳: 藤沢邦子
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