ペナー造船所のあった場所、ペンブローク・ドック

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ウエールズ・コースト・パスのこの一角の下の谷には、ヴィクトリア時代には造船所があった。ペナー造船所作業場は1875年にジェイコブズ・ピルで操業を始めた。造船所は1885年頃に閉所された。

そこでは多くの商船が建造され、最後のころの1884年9月には、王立海軍のためのHMSエイコーン(マリーン級スループ艦)が進水されている。

造船所の重役だったエドワード・ジェームズ・リードは、ペンブローク選出国会議員でもあり、1870年に引退するまで海軍省の軍艦建造部長かつ造船技師だった。1875年、彼は日本帝国海軍のために軍艦3隻を建造する契約を獲得した。そのうちの1隻が日本初の近代的戦艦としてここで造られ、比叡(比叡山に因んで)と命名された。 

当時、日本の軍艦はもっぱら沿岸防衛のためのものだった。新興日本は海軍創生にあたり、英国王立海軍を手本とし、新しい攻撃型コルベット艦を備えようとしていた。比叡は甲鉄で覆われ、船腹は二層のチーク材から成り、間には鉄板が挟まれていた。さまざまな艦砲は、ドイツのクルップ社製で、巧みに配置されていたので、船は方向転換することなく、全方向に砲弾を発射することができた。

1877年の比叡進水式には、駐英公使の上野影憲と幾子夫人が参列した。船はまずカーディフに行き、ドライドックで船下部に銅版が張り付けられた。船はカーディフから横浜に向かい、近代日本の最初の君主たる明治天皇の出迎えを受けた。乗艦して回航を指揮したのは、ロンドン留学を終えたばかりの海軍士官・東郷平八郎だった。1905年、彼は海軍大将としてロシアのバルチック艦隊を撃破し、「日本のネルソン」と呼ばれるようになった。

記事協力、翻訳:   藤沢邦子

所在地の地図

E.J.リードは、1879年の甲鉄艦扶桑の回航を指揮して、夫人とともに来日。

その回想記を著わしている。

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