フリント城址

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この城は、イングランド国王エドワード1世がウェールズを征服するべく、北ウェールズに築いた多くの城の最初のものだった。この城跡とディー川河口の絶景のいくつかは、ウェールズ・コースト・パスのあちこちで堪能できる。JMW・ターナーが1830年代に描いた夜明けの絵(右図)は、北西からフリント城を眺めたものである。 

城の建設は1277年に始まった。要塞化された新しいフリントの町も造られ、ここが最終的にフリントシャーの行政の中心地となった。「最後の旧ウェールズ君主」スウェリン・アプ・グリフィーズが、1277年11月にエドワードと協定を結んだあと、城造りの勢いが緩んだ。が、ウェールズ人が1282年3月に反旗を翻してフリント城と町へ侵攻したので、再び城塞都市の建設がピッチを上げた。

城は1284年にほぼ完成し、今も残るグレート・タワー(独立したドンジョン)を特徴とするものであった。タワーは当初はもっと高く、それ自体の濠と跳ね橋をそなえ、侵攻軍が城内に入って居住者に危害を及ぼさないように工夫されていた。

Old drawing of King Richard II in captitivity at Flint1399年8月、 リチャード2世は、コルウィン湾の近くで誘拐されフリント城に連行された。ここで彼はヘンリー・ボリンブルック(後のヘンリー4世)に会い、9月に王位を追われた。そしてリチャードは2,3か月後に死亡。この出会いはシェークスピアの史劇『リチャード2世の悲劇』の一場面となっている。リチャードが寂しげに城から手を振っている絵(ウェールズ国立図書館提供)は、18世紀のトマス・ペナントのウェールズ旅行記に描かれていたもの。

ピューリタン革命の大内乱〈1642-60〉時代には、国王軍がこの城を使用していたが、1646年に議会軍に降伏した。その戦争の後、フリント城が将来そのような攻防に使われないようにと、防御設備が破壊された。そのため、城は監獄としても使用されなくなった。新しい牢獄が17世紀の裁判所の近くに建設され、それは今も残っている。

この場所は城の中庭(外壁と内壁の間)に郡監獄が建設された1785年から、再び囚人用に使われるようになった。1840年の報道によると、そこには猟場管理人を殺して処刑を待つエドワード・ジョーンズなど13人が収監されていた。1861年には、寝たきりの夫トマス〈80〉を殺して死刑を言い渡されていたホリウェルのサラ・エドワーズ〈77〉もここに収監されていた。彼女は1861年8月の死刑宣告から、公式に「執行延期」されていたのである。(彼女は自身も病弱ながら夫を長年介護し、夫を殺したあと自殺しようとしたが死にきれなかった。陪審はサラを殺人で有罪としたものの「情状酌量」を求めた。判事は死刑判決を下したが、彼女は上級審から「執行延期」を得たらしい。)

さらに第一次世界大戦の前および戦中には、ここは軍事的な目的にも使われるようになった。1910年、陸軍省がフリントシャー領土協会による城の購入を認めたので、第5ロイヤル・ウェルシュ歩兵連隊は、その本部をハワーデンからここに移した。現在、城の遺跡はCadwの管理下にあり、入場無料。

郵便番号: CH6 5PF    所在地の地図

Cadwウェブサイト上のフリント城

翻訳:藤沢邦子

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