聖デイヴィッド大聖堂、ウェールズ南西部
6世紀にここに修道院を開いた聖デイヴィッド(ウェールズ語ではデウィ・サント)は、ウェールズの守護聖人として3月1日に祝われる。彼は中部ウェールズからブリタニーまでキリスト教を布教してまわり、多くの奇蹟を起こしたと信じられている。12世紀にローマ教皇がセント・デイヴィッズを巡礼地として承認した。
古くはメネヴィアと呼ばれていたこの地の修道院は、何回もの災難にあってきた。1089年には聖デイヴィッドの祠堂から貴金属が略奪された。
現在の建物は、主として13世紀に建てられたもの。1220年に塔が崩壊し、破損した部分は1250年までに再建された。しかし他の部分も、1248年の地震のあと補修が必要になった。その後さまざまな増築・修復が行なわれ、今や、この大聖堂はウェールズで最大の教会建築物である。
中に入ったら、装飾をこらした天井にご注目ください。身廊の上の彫刻を施したカシ材の天井は15世紀に遡る。長い身廊に沿って眺めると、湿気を帯びた土台によって生じた独特の傾斜に気づくはずである。
かつて高い市壁が、この中世の大聖堂の町を囲んでいた。その門楼の一つだったポルス・ア・トゥルは、長いスロープを登りきったところに今も聳えている。
大聖堂には長い学識文化の伝統がある。9世紀にアルフレッド大王(アングロサクソン7王国時代の王)は、ヴァイキングに荒らされた自国ウェセックスに知的活況を復興するべく、聖デイヴィッド大聖堂の主教に助けを請うた。1180年頃には、主教の息子で大学者だったフリギファルクが、聖デイヴィッドの重要な伝記を著わしている。
聖堂の中には、1223年にここに埋葬されたジェラルド・オブ・ウェールズ(ラテン語名はギラルドゥス・カンブレンシス)のものと伝えられる墓像がある。彼のウェールズとアイルランドの旅行記は、私たちに貴重な歴史的情報を残してくれた。聖デイヴィッド大聖堂の司教になるというジェラルドの悲願が叶わなかったのは、「彼のウェールズへの愛国心が強すぎる」とイングランド人上層部に見なされたためであろう。彼は、イングランド王権やカンタベリー教権から独立したウェールズ教会を目指していたのだ。その念願は、実に700年を経た1920年に、非国教のウェールズ教会の樹立として実現した。
1188年、第3回十字軍兵士を募集すべく、ジェラルドはカンタベリー大司教ボールドウィンに随行して、ウェ^-ルズにやってきた。当地に滞在中、彼らは司教ピーターによる歓待を受けただけでなく、司教は彼らのウェールズ・ツアーに最初から同行していた。ジェラルドの旅日記によれば、セント・デーヴィッズはずっとウェールズの首都であったという。ボルードウィンは大聖堂の高祭壇 でミサを執り行なった。
聖堂内陣には、ヘンリー7世の父エドマンド・テューダーの祭壇墓がある。エドマンドは、バラ戦争中の1456年、ヨーク派によりカーマーデン城に不法に監禁されて、25歳で没した。エドマンドの遺骸は修道院解散の時に、ここからカ-マーデンに移された。彼の祭壇墓は、修道院解散を命じた孫のヘンリー8世の献金で作られたものである。
16世紀に、この大聖堂をカーマーデンに移すという計画が生まれた。そして司教の住居がカーマーデンに整えられると、大聖堂の近くにあった司教宮殿は荒れ果ててしまった。
2017年2月、ジョアンナ・ペンベルシーが大聖堂の司教に叙任された。ウェールズで最初の女性司教である。その1年後には、サラ・ローランド・ジョーンズOBEが、女性として最初の大聖堂主席司祭 になった(上の写真)。
大聖堂のオルガンは1883年に有名なヘンリー・ウィリスによって制作され、20世紀に2度作り直された。鐘は、塔が再び崩壊しそうになったので、1730年に鐘楼からポルス・ア・トゥルへと移された。2001年、2つの新しい鐘が <アメリカン・フレンズ・オブ・聖デイヴィッド大聖堂>により寄贈された。
郵便番号: SA62 6RD 所在地の地図
翻訳: 藤沢邦子