<ジ・エパーストーン>、アベイロード15番地、スランディドゥノ
現在はゲストハウスであるこの建物は、20世紀初めここに住んでいた2人の姉妹の故郷の村に因んだ屋号をもつ。ステンドグラスの内窓などの時代色ある造作がいくつか残っている。
ルーシー・ドロシア・チャンプニースと妹のスーザン・エディスは、マクシミリアン・ヒュー・スタンリー・チャンプニース師(ノッチンガムシャーのエパーストーン教区長)の娘だった。彼はオックスフォードで教育を受け、258エーカーの農地を所有していた。莫大な富を残して彼が1891年に亡くなったとき、ルーシー、スーザン、そしてメアリーの3姉妹は、まだ牧師館で暮らしていた。5人の召使を抱え、3人とも独身であった。
1863年生まれのエディスは、1903年までに北ウェールズに移り、救貧官委員会のメンバーに選ばれていた(救貧官とは、貧民を住まわせ仕事を与えるワークハウスの監督)。1907年に、彼女は女性参政権協会全国ユニオンの最初のウェールズ支部の書記になった。エディスのその方面での活動については、マドック通りの協会事務所のホームページで 閲覧できる。
エディスとルーシーは1911年までには、既に<エパーストーン>と名付けられていた9室もあるこの家に住んでおり、料理人およびホリーヘッド生まれの女中アニー・グレース・ヒューズを抱えていた。
エディスが1916年に女性警察サービスに加わったとき、彼女は50代だった。この女性警察サービスは、後に警察隊内の女性補助サービスという組織になった。女性警官に逮捕権が与えられたのは1915年とかなり遅く、また女性警官は男性警官にはあまり歓迎されていなかった。
女性警官は主として警察高官夫人のエスコートのため、あるいは子供や女性に関わる福祉事案において、任用されていた。給与は男性の同僚よりもはるかに少なく、また年金はなかった。子供のいる女性は、採用を禁じられていた。
当時、女性には確立した警官用制服はなかった。1920年代、エディスはある制服を着用したとして5ポンドの罰金を科せられた、警察補助サービス隊のメンバーであったにも拘わらず! 英国警察隊では、1970年代まで、性差別が継続していた。
エディスは1928年にサリーのサットンで亡くなった。その遺言には、当時44歳だったアニー・ヒューズが「私たちにしてくれた全てへの感謝として」、彼女への遺産100ポンドが含まれていた。
寄稿: ディアン・ベル(ウィメンズ・アーカイブ・ウェールズ、スランディドゥノ博物館ギャラリー)。
ヘーゼル・ピアス博士(ザ・ヒストリー・ハウス)
郵便番号 LL30 2EE 所在地の地図
ウィメンズ・アーカイブ・ウェールズ・ウェブサイトーースランディドゥノ・ウィメンズ・ヘリテージ・ウォークのちらしよりダウンロード
翻訳: 藤沢邦子
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