ザ・スピルマン・ホテル、カーマーゼン
今はザ・スピルマン・ホテルであるこの建物に貼られたプレートは、女子教育の先駆者エリザベス・フィリップス・ヒューズがここで育ったことを記念している。写真は1890年代のエリザベス・P・ヒューズ (ケンブリッジ大学ヒューズ・ホール提供)。
ジョージ王朝風のこの建物は、元々は郵便局だったらしい。そして1世紀ほどの間、ここは外科医や医師に関連する建物だった。
1851年、エリザベスは付近のキング・ストリートで生まれた。10代前半から、トーントンのホープ・ハウス・スクールで正規の教育を受けた。その後、ケンブリッジ大学のチェルトナム・レディーズ・カレッジおよびニューナム・カレッジに進学。1884年、そこでモラル・サイエンス(心理学、倫理学、論理学を纏めた教科)の優等試験を受験し、1番で合格した。しかし学位は与えられなかった。ケンブリッジは1948年まで、女子に学位を与えないことになっていたからだ。だが彼女は1885年までには、女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(Cambridge Training College for Women, CTC)の初代校長になっている。CTCは、その後発展して、現在のヒューズ・ホールとなった。
ウェールズ人女性のための大学教育についての彼女の考えは、1884年アイステズヴォッド全国大会で発表された論文を通して、脚光を浴びることになった。その2年後、エリザベスはウェールズ女子教育促進協会(Association for Promoting the Education of Girls in Wales, APEGW)の設立メンバーになった。ウェールズ中等教育法案が1885年の議会第一読会において、女子のための効果的教育法が十分に討議されなかったため、APEGWを設立する必要があったのだ。1887年、エリザベスは庶民院のある委員会で、ウェールズの教育について演説を行なっている。
APEGWが1902年に解散されたとき、カンブリアン・ニュース紙は「ウェールズの少女たちは、今や、小学校から大学まで拡大された教育制度をもっている」そして「この素晴らしい変化」はAPEGWができたおかげだったと報じている。
1900年、エリザベスはアメリカに派遣され、教育について講演し、学校を視察した。8ヶ月余の滞在中に、監獄や保護観察の制度なども学んでいる。1901年にサンフランシスコから横浜に渡った。日本では、エリザベスは2年間、日本女子大学校で客員英語教授を務め、日本のカレッジとCTCの間に繋がりを築き、それは今日まで続いている。また、全国の小中学校、師範学校などを視察して、英語教授法を教えたり、黒板画や図画教育の紹介をしたり、女子体育授業の導入を推奨した。離日後のヒュースは中国、マレー、インド、エジプト、キプロスに立ち寄りつつ、1903年に帰国した。
帰国後バリーに落ち着き、町の師範学校および傷病兵のための赤十字病院(ウェールズでは初めて)の設立に尽力した。彼女はMBE(大英帝国勲章)の栄誉を受けた最初のウェールズ人女性である。
彼女はウェールズ大学の評議委員にもなり、1920年、生涯にわたる業績を認められ、名誉法学博士号を授与された。
1925年に没し、バリー・タウン墓地に埋葬された。
記事協力: ウェールズ女性公記録のメアリー・ソアリー博士
郵便コード: SA31 1LQ 所在地の地図
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ザ・スピルマン・ホテルのウェブサイト
翻訳: 藤沢邦子