アン・ハットン記念館、市民センター、スウォンジー

button-theme-womenbutton_lang_englishアン・ハットン記念館、市民センター、スウォンジー

swansea_ann_hatton_portrait小説家アン・ハットン(1764-1838)と夫のウィリアムは、1799年から1806年にかけて、この付近で浴場を営んでいた。ウィリアム・ジョン・ワットキーズによる彼女の肖像画は、スウォンジー市のグリン・ヴィヴィアン・アート・ギャラリー・コレクションの許可を得てここに掲載している。

アン・ジュリア・ハットン(旧姓ケンブル)は、ウースターで、旅役者の一家に生まれた。長姉のサラは、ブレコンの宿屋で生まれ、後にその時代きっての大女優となったサラ・シドンズである。

アンの最初の結婚は悲惨だった。夫のカーティスは重婚がばれるや、彼女を捨てたのである。鬱状態になった彼女は自殺をせんばかりだった。「シドンズ夫人の妹」の貧困とスキャンダルは人気女優サラを悩ませたので、サラはロンドンから少なくとも150マイル離れたところに住むことを条件に妹に年金を与えて援助した。兄の一人も、アンに年間の生活費を与えていた。

swansea_bathing _houseアンと2番目の夫ウィリアム・ハットンはしばらく北アメリカで暮らした後、スウォンジーに居を定め、ここで浴場を営んだ。スウォンジーは保養施設にとって良い場所だったのだが、ハットン家がそれを保有していた頃は景気が衰えつつあった。1834年までに浴場(西グラモーガン・アーカイヴ・サービスのご好意で写真を掲載)はワークハウス(救貧院)になり、一時期は平均112人の貧困者を収容していた。

ウィリアムが1806年に死んだ後、アンはスウォンジーを離れた。足が不自由だったにもかかわらず、彼女はキドウェリーでダンス教師として生計を立てていた。ここをクリックすると download MP3 (940KB)、彼女の詩「スウォンジー湾」を聴くことができる。スウォンジーを離れるときの心情を吐露している。

アンは1809年にスウォンジーに戻り、詩と小説を書くことに専念した。彼女の作品は1783年頃から出版されはじめ、1813年から33年にかけて、彼女は多くのロマンス小説を書いた。彼女にはアン・オヴ・スウォンジーとアン・オヴ・キドウェリーという2つのペンネームがある。

1838年、アンはスウォンジーのハイストリートの教会墓地に埋葬された。彼女は財産のほとんどを、16年間彼女に召使いとして仕えて遺言執行人でもあったメアリー・ジョーンズに、「優しく、誠実に、たゆまず尽してくれたことへのささやかな謝礼として」遺した。そして、自分が愛用した2巻の聖書を大切に保管し、それをメアリーのために読んでくれる人を雇うよう、言い残している。

詩の朗読: ローナ・クルック
翻訳: 藤沢邦子

郵便番号: SA1 3SN    所在地の地図: 

Wales Coastal Path Label Navigation anticlockwise buttonNavigation clockwise button