カーナーヴォン城

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これは、イングランド国王エドワード1世の命令により、13世紀末のウェールズ併合の一環として建てられた多くの城の一つだ。他の城と違って、多角形の塔をもつカーナーヴォン城は、東ローマ帝国のコンスタンティヌス帝が首都コンスタティノーブルに築いた城塞を模したものとされる。その塔の形によって、イングランドの武力を誇示しようとしたのだろう。

Painting of Caernarfon Castle by JMW Turner11世紀にはここに、ノルマン風のモット・アンド・ベイリー型の城 (周囲を城壁で囲み、その中の丘の上に建てた城) があったが、1115年にウェールズ人に攻略された。エドワード王のカーナーヴォン城は、北側の新しい町と一体化するように設計され、防御用の城壁で囲まれていた。築城は1283年に始まり、初めは南側に重きを置いていた。北側は新しい市壁で守られていたからである。町と城は1294年にウェールズ人反乱軍に攻略され、破壊を加えられたが、すぐにイングランドに奪還された。その一件の結果、改修においては城の北壁に力を注ぐことになった。築城には47年を要した。城の石の一部は、近くの古代ローマ要塞跡からもってきたものだ。

厚さ5メートル半の壁をもつ鷲の塔には、王家居住区域があった。エドワードの息子(後のエドワード2世)は1284年にそこで生まれたことになっている。しかし地元の伝承では、城塞市内にあった屋敷プラス・プレストンで生まれた後、カーナーヴォン城に移されたという。エドワード王は、ウェールズにはもはや生粋のウェールズ人太守はいないことを強調するために、赤ん坊を「プリンス・オヴ・ウェールズ(ウェールズ生まれの王子)」と呼ぶことにした。この名称が、イングランド王位の男子後継者の約束事になっていく。英国皇太子(プリンス・オヴ・ウェールズ)になる叙位式が、この城で1911年と1969年に行なわれた。後者(現チャールズ皇太子の叙位式)は、テレビ中継で世界の5億人が見た。 

城は17世紀の清教徒革命のとき、議会軍に占拠された。そしてJ・M・W・ターナーの1799年の絵画に描かれたごとく荒れ果てたが、そのような状態は1817年に改修された。スレートの船着き場が拡大されたのである。今も残っている高い城壁は、右側でスロープに置き換わり、城に沿っている川のほうへ広がる台地が造成された。

19世紀には、地元の政治家サー・サウェリン・ターナーが再建事業に尽力した。彼は観光業の重要さがましていることを意識して、町の監獄を市の周縁部に 建て替えて、城から見えないようにした。 

現在、カーナーヴォン城はCadwの管轄下にある。城郭と市壁に囲まれたこの町は、コンウィ城、ビューマリス城、ハーレフ城などと共に、UNESCO世界遺産の一部となっている。この城の塔のうちの2つは、ロイヤル・ウェルチ・フュージリヤーズ(英国陸軍連隊、プリンス・オヴ・ウェールズ師団)博物館となっている。そこに行くには、下記リンクの案内に従ってください。

翻訳: 藤沢邦子

郵便番号 LL55 2AY    所在地地図

カーナーヴォン城、Cadw ウェブサイト

ロイヤル・ウェルチ・フュージリヤーズ博物館ウェブサイト

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