リチャード2世が待ち伏せされた場所、ペンマエン・ヘッド、オールド・コルウィン

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「ペンマエン・ヘッド」という岬の名称は、ウェールズ語のpenmaen が「石の頭」を意味し、英語のheadが「頭」を意味するので、ウェールズ語と英語による類語反復になっている。

colwyn_bay_richard_ii_ambush1399年、イングランド王・リチャード2世(1367-1400 )は、アイルランド遠征から帰国する途中、ここで政敵ヘンリー・ボリングブルックの支持者らによる待ち伏せにあった。捕えられたリチャードは、フリント城に連行され、ボリンブルックに王冠を奪われた。こうして新イングランド王・ヘンリー4世が誕生した。

オールド・コルウィン生まれのテリー・ジョーンズ(<モンティ・パイソン>の喜劇役者で歴史家)によれば、リチャード2世は「14世紀の政争劇の犠牲者」だった。

この待ち伏せの図(ウェールズ国立図書館提供)は、1770年代のトマス・ペナントの『ウェールズ旅行記』の挿絵でおなじみだ。ペナントは、「コンウィでリチャード王を迎えたノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーは、王のミサに同行し、祭壇で臣従を誓った。だがその後、ペンマエン・ロースの断崖に近づいたとき、王はパーシー家の紋章旗をひるがえす兵団に気づいた。伯爵が王の馬の鼻面をつかんだとき、王は伯爵の裏切りに怒り、『最後の審判の日、神はあやつに正義を下すであろう』と言った」と記している。

この政変直後、オワイン・グリンドゥールがウェールズ独立戦争を起こした。彼はウェールズ人領主で、リチャード王の臣下でもあった。彼の銅像はデンビシャイアーのコルウェンで見られる。イングランドの王位簒奪事件が、グリンドゥールに独立戦争を促した理由の一つになったのかどうかは、定かでない。

その頃から、岬はライムストーンの採石場になった。石材のいくらかは地元の建物に使用された。薄いグレーの色調は、オールド・コルウィンやコルウィン湾付近にある多くのヴィクトリア時代の建物の際立つ特徴である。

1960年代には、ペンマエン・ヘッドに、ロバートソン・リサーチ社というNPOのための研究所が建てられた。土木工学や採石業などの様々な分野のために、ここで地質学サンプルが分析された。同社はまた、北海油田の発見のあと、急速に成長を遂げてきた。現在はスランディドゥノを拠点とし、いまも高度な技術や熟練作業を提供する地元きっての重要な会社である。

チェスター&ホリヘッド鉄道は、1840年代ごろの建設にあたり、ペンマエン・ヘッド岬の下にトンネルを掘った。だが1980年代に高速道路A55を建設する頃には、採石場がこの岬あたりをかなり削って低くしていた。おかげで、トンネルの北では、あまり高度を変えることなく、岬を横切る高速道路を建設できた。

新しい道路の浸食を防ぐために、海岸に沿って大きなコンクリート・アンカーシェープが、設置された。ペンマエン・ヘッド付近で、コンクリートのアーチ型歩道橋(地元ではレインボウ・ブリッジと呼ばれている)が、A55を横断している。

2017年には、リチャード2世を描いた絵葉書風の花崗岩が、コルウィン湾のプロムナードに設置された。

所在地の地図

トマス・ペナント『ウェールズ旅行記』をもっと見る ― ウェールズ国立図書館ウェブサイト

翻訳: 藤沢邦子

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